2012年3月31日土曜日

幼児虐待事件の裁判、三判決

一つ前のエントリーで孤立死、孤独死のことを書いたのだが、実は最近幼児虐待事件のことも少し気になっている。


ここのところ続けざまに3つの事件の判決が言い渡された。たまたま判決の日にちが近かったので普段見過ごされがちなこと(まったく気がついていないという人は少数かもしれないが、はっきり認識していたという人も少ないと思う)が明白にわかるので、そのことについて書いておく。


以下の3件がその3つの事件である。




記事を読んでいただけばわかるが、3つとも幼児虐待という殺人事件なのだが判決に大きな違いが見られる。

最初の事件では24歳の母親が育児放棄し、3歳と1歳の子どもを衰弱死させた。裁判官は懲役30年を言い渡した。

2番目の事件では夫28歳、妻29歳の夫婦が1歳の娘を暴行し死に至らしめた。裁判官は求刑が10年であったにもかかわらず、懲役15年を言い渡した。

3番目の事件では26歳の母親が生後2カ月の娘を殴って死なせた。裁判官は懲役3年、保護観察付き執行猶予5年(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。

最初の事件のみ裁判員裁判だったということである。

むろん3つの事件の背景は異なるだろう。最初の事件では2人の子どもが犠牲になっている。確かに他の事件では犠牲になった子どもは1人だが、暴行によって死に至らしめている。

いかに事件が多様であるといっても、類似の事件で「懲役30年」「懲役15年」「執行猶予」と大きく判決が異なる合理的な説明があるとはどうしても思えない(断っておくがここで判決の軽重は論じない)。

そこで得られる結論は、現在の司法システムはけっこういい加減な部分があるということである。

だからこれから先、もし何らかの犯罪を犯したり巻き込まれてしまったら、法が公平に裁いてくれるなどと甘っちょろい考えは持ってはいけない。なにしろ検察官、弁護士、裁判官等の考えや力量、そしてその時々の世論の動向によって判決は大きく変わってしまうのだから。

当然のことながら法を犯さないように日頃から気をつけるのが最善だが、万が一不幸にもなんらかのアクシデントによって司法の裁きを受けるはめに陥ったら、それがどんなに軽微なものであってもあなどってはいけない。全力で対処することをお勧めする。

2012年3月24日土曜日

孤立死、孤独死について

高齢者や社会的弱者の孤立死、孤独死が後を絶たない。



それを受けて東京都が、速やかに部屋の中に入って安否を確認するよう対応を見直すことになった。


問題解決に向けての小さな前進だとは思う。何もやらないよりははるかにましである。加えて様々な取組が自治体レベルで検討されている。電気・ガス・水道料金などの滞納情報から危機を察知するという方法なども、実現できればある程度の成果を出せる可能性はある。


だが、いま考えられているいくつかの対策がすべて実行に移され、その結果、問題の多くがうまく解決するかといえば、残念ながらそうはならない。


理由はいくつかあるが、大きなものを二つほど挙げておく。


まず問題の性質上、効果的と思われる制度ができたとしても、その運用がかなり難しいということだ。たとえば滞納情報から危機を察知するという方法について考えてみよう。


たぶん制度は滞納が発生したらできるだけ早く安否確認することと決められる。確認は地区の民生委員か行政職員か警察など決まった人が行うことになるだろう。


制度の運用が始まり、滞納情報が続々と届く。


担当者は最初のうちは丁寧に1件1件対応する。だがほとんどの場合、単純な滞納に過ぎず、訪問相手に感謝されることなどほとんどなく反対に嫌がられてしまう。中には「いちいち確認に来るんじゃねぇ、ボケ」とか言ってすごむ輩もいるかもしれない。繰り返し繰り返し訪問しなければいけない家も出てくる。安否確認に行くたびに迷惑がられ、そのうちにいちいち滞納するたびに来ないで欲しいと頼まれたりもする。


やがて訪問先を選ぶようになり、誰かがどこかで何かを見落とす。そして再び孤立死が発生する。


どんな制度でもうまくいくか否かは、ある程度それを運用する人の能力に頼らざるを得ない。より実効性のある制度にしていくためには、試行錯誤を繰り返す以外に方法はない。


二つ目の理由は、これらの対策は根本的な問題の解決になっていないということだ。


孤立死、孤独死が増えたのは、社会が閉鎖的になったためにほかならない。その根本問題をしっかり受け止めて解決しない限り問題の根絶は不可能だ。


私たちは密閉度の高い快適な住居を手に入れ、プライバシーを尊重するという理屈で近所付き合いの煩わしさを大きく軽減することに成功した。だがそれは地域のつながりを弱め、孤立死や孤独死などを誘発する諸刃の剣だったということだ。

そろそろ間違えを認め、進む方向を修正するべきときなのではないだろうか。

2012年3月15日木曜日

stay hungry, stay foolish



stay hungry, stay foolish


スティーブ・ジョブズが残した有名な言葉だ。


多くの人がこの言葉を気に入っているようである。かく言う私も気に入っている者の一人だが、あることがきっかけでこの言葉を思い出し、ついでにこの言葉をみんなそれぞれどんな解釈をしているのだろうか、ということに思いが及んだ。


どうもいろいろな解釈がなされていそうである。第一、日本語への訳し方からしていろいろだ。


ネットで調べると「ハングリーであれ。馬鹿であれ」とか「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」「ハングリーであれ。分別くさくなるな」「ハングリーであれ。愚か者であれ」「飢えていろ、馬鹿でいろ、いつまでも」……。


いろいろあるが私にはどれもしっくりこない。


私が気に入っている翻訳は後で紹介するとして、解釈について少し考えてみたい。もちろんスティーブ・ジョブズの言葉をどう解釈するかは個人の勝手である。私はただ自分の解釈を言ってみたいだけのことだ……いちおう念のため。



2012年3月13日火曜日

がれきの広域処理問題は解決のめどがついたようだが残された問題の整理

岩手県と宮城県にいまなお山積みになっているがれきの広域処理問題。

政府がだいぶ学習したおかげでどうやら実施に向けて前進を始めたようである。もともとこの問題に関しては、できれば受け入れたいと考えていた人が多かったようなので「よかったよかった」で済ませたいところなのだが、まだここで手放しで喜んではいけない。

いくつかの問題点が残されているのでその点を確認しておく。

細野環境相は、方針として住民に放射線量をはかってもらうことが鍵だと言っている。


その点に関しては完全に同意する。
ただしどうも細野環境相が不満げなのでひとつ指摘しておきたい。

いままでがれきの広域処理が進まなかったのは、すべて国の説明不足と無策が原因である。がれきの受入れに反対していた人たちも被災地が苦しんでいることくらい、大臣どのにわざわざご説明いただかなくてもみんな十分わかっている。できれば協力したいが国が「安全、安心」と言うだけできちんとした説明をしてこなかったから反対せざるを得なかったわけだ。

いまや政治家と役人は最も信用できない人びとに分類されている。そんな人たちが「安全、安心」といくら言っても無駄だ。謙虚に「安全、安心の問題は国民の皆様にチェックしていただき、ご判断を仰ぎます」と最初から言っていれば何も問題はなかったのだ。

ここにきてようやくそのような状態になってきたので反対の声が収まってきた。ただそれだけのことだ。

さて、肝心のがれきの広域処理に関する問題点だが、がれきを受け入れるといっても政府が決めた8000ベクレル/kgまでの廃棄物は一般廃棄物レベルという話を信じて大丈夫かという問題がある。

もしかすると政府が基準を見直すのかもしれないが、いまのところまだ不透明である。8000ベクレル/kgがどの程度の汚染具合かというと、まず昨年稲の作付け制限に使われた水田の土壌汚染基準が思い浮かぶ。5000ベクレル/kgだった。

最近、こんな記事も見かけた。


8000ベクレルより若干低い7300ベクレル/kgのセシウム検出は米国では高濃度汚染だが、日本では放射性廃棄物にもならない一般廃棄物レベルの汚染……というのはなんとも不思議な話だ。

当然、がれきを受け入れる自治体は慎重を期して環境省に以下のようなことを要望している。できれば住民とよく話し合って地元基準を決めてもらいたいものだ。被災地のためとはいっても、汚染を日本全国に広めてしまっては本末顛倒である。


8000ベクレル/kg

どうしてこんなとんちんかんな基準値が決められているのか、それは以下の細野環境相の話を聞くとよくわかる。



細野環境相は「100ミリシーベルト以下では疫学的な健康の問題は生じない」と言い切ってしまっているが、これは明らかに間違いである。
正しくは100ミリシーベルト以下の場合、健康の問題は生じるかもしれないし生じないかもしれない。ようするにデータが乏しくはっきりわかっていないのだ。

その証拠に翌日のNHKニュース9で、東大の研究グループが別の発表で細野環境相と異なる解釈を披露している。


東大の研究グループはたとえ1ミリシーベルト以下の被曝でも、健康への影響はあると言っているわけだ。

このように意見がわかれているのに細野環境相は、自分にとって都合のいい解釈を恣意的に選択したわけだ。本来なら国民の健康を守るために、より厳しい解釈を選択するべきではないだろうか。

まぁ、そんな人たちが決めた数値が8000ベクレル/kgが一般廃棄物レベルという解釈なのだ。多くの人が「信用ならん」と考えるのは当然である。

がれきの受け入れを決める自治体はぜひ、放射線の基準値をしっかりと住民と話し合って決めてもらいたい。

そしてもう一つの問題点。いまのところ最初は安全性をアピールするために、がれきの放射線量を住民に測らせてくれたり、はっきり見せてくれると思う。しかしがれきの受け入れが本格化したときにどうなるかという問題だ。

問題は慣れてきた頃に起こりやすい。必要に応じて住民のチェックを受け入れさせるべきだろう。役人やその指定業者に任せていたら何をやらかすかしれたものではない。

そこまでやってはじめて、がれきの受け入れは安心して実行できるのだと思う。それでも事故を完全に防ぐことは不可能だから、人口密集地帯や水源の近くなどの処理施設には持ち込まないように注意すべきだろう。

いずれにしても、がれきの広域処理が前進し始めたことは評価したい。

2012年3月11日日曜日

2011.3.11から1年目

1年が瞬く間に過ぎた。

自然の恐ろしさをまざまざと見せつけた大災害によって亡くなったり行方不明になった方々は19009人(2012年3月10日現在)。おそらく避難所で不自由な暮らしをしたために亡くなった方を含めれば犠牲者は20000人を下らないだろう。

あの大津波の映像を見たとき、さすがにこれから日本はどうなってしまうのかと不安を感じた。と、同時にこれしきのことで日本がどうこうなるわけはないという根拠のない自負心が心をよぎるのも感じた。

災害から1年、なんとか無事に生きている。そのことには素直に感謝しなければならないと思う。しかし同時にたまらない焦燥感に襲われるようになった。

未曾有の大災害が私たちにいろいろなことを教えてくれたからだ。

私たちが一流企業と信じていた東京電力という会社が、とんでもなく嘘つきで無責任で横暴な会社であったこと(「東京電力」というところに別の「企業名」を入れても意味が通じる場合が多い)。

政治家は国家の非常時にあっても権力争いを優先するということ(「政治家」というところに「愚か者」という言葉をあてはめても意味がよく通る)。

役人は自分たちの責任回避のためには平気でウソをつくこと(「役人」というところに「政治家」という言葉を入れてもOK)。

むろん、このような書き方をするのは多少乱暴であることはわかっている。社会のために努力している企業も政治家も役人も皆無ではないだろう。だが多くの場合、この乱暴な書き方があてはまってしまうといまは確信している。

うすうす感じていた疑念を、大災害が見事に暴きだしてくれたのだ。

これは好機なんだと思う。

われわれがベストではないにしてもベターであると信じていた社会システムが偽りに満ちた欠陥品であることがわかったのだ。

せっかくだからつくり直せばいい。

官僚と政治家と大企業が、自分たちのために作り上げた社会システムは、あきらかにもう限界点にきている。ダメな部分は壊し、ひとつひとつ再構築していくことが必要だ。

〈あらゆる創造活動は、まずなによりも破壊活動である。—Every act of creation is first of all an act of destruction.—

確か、ピカソがそんなことを言ってたっけ。

1年前、大災害の犠牲になった方々の死を無駄にしないために、いまなお被災地で苦しむ方々を少しでも支援するために、行動していきたいと思う。

2012年3月8日木曜日

なぜそう判断したのか理解不能

嫌な事件が後をたたない。




仕事には後回しにできない種類のものがある。
不幸にもその手の仕事が回ってきてしまったら、たとえデートの約束をしていても、海外旅行に出発する日だったとしても、前日に徹夜していても後回しにしてはいけないのだ。

人の生死に関係ない仕事でもそんなことは当たり前のように起こる。

なぜ安易に「緊急性がない」と判断できるのか。
どうしてもそれが理解できない。

2012年3月7日水曜日

人間は人の運命を変えてしまうことにさえ鈍感になれる

また殺人と思われていた事件の再審が始まる。

大阪の放火殺人事件 再審開始決定

いままでの例から考えると今回の再審も無罪となる可能性が高いと思われる。
この手のニュースを見聞きするときいつも思うのだが、事件に関わった検事、判事はこの再審開始決定のニュースを知ってどう思うのだろうか。

おそらく当事者は複雑な思いでことの経緯を見守っているだろう。

ところが直接の関係者ではない者は違う。

決定について大阪地方検察庁の大島忠郁次席検事は、「意外な判断で驚いている。決定の内容を精査し、高等検察庁などとも協議のうえ、適切に対応したい」とコメントしているという。

再審開始が決定したということは、自分たちの組織が過ちを犯した可能性があるわけだ。
ならばもう少し配慮したコメントはできないのだろうか。

もしかしたら無実の人の運命を変えてしまったのかもしれないのだから。

2012年3月6日火曜日

このような姿勢は評価に値すると思う

菅前首相が時事通信社のインタビューに率直に答えている。このインタビューで彼が語ったことを私は高く評価したい。



このインタビューで菅前首相は、自らの原発事故対応が「大失敗」であったことを認めている。そして「大失敗」の原因は原発事故に対する備えがなかったためとしている。私もおおむねその通りだと思う。

菅前首相が比較的早い時期に、真情を吐露したことも評価したい。みんなの記憶が薄れた頃にこっそり打ち明けるのではあまり意味がないからだ。
自らの過ちを決して認めようとせず、改めようとしない多くの政治家は見習ってもらいたいものである。

そして菅前首相には事故再発防止のためにもう一段踏み込んだ総括を期待したい。


胸に突き刺さるニュース

もちろんまるっきり考えなかったわけではない。
岩手や宮城と異なり福島は放射線のために行方不明者の捜索ができない。そのような報道があったので助けを待ちながらお亡くなりになった方がおられるだろうことは容易に想像ができた。
だからそのような考えがちらっと頭をよぎることはあったが、こころが拒否反応を起こしていたのだろう。深く思いを寄せることはしてこなかった。

しかし、改めて現実を突きつけられると胸に何かが突き刺さったような気持ちになる。



身動きができず、食べるものも飲み物も手に入れられず、おそらく何が起こっているかもわからないまま、孤独の中で死んでゆく。

なんということだろうか。原発でつくられた電気を使ってきた者として、積極的に原発に反対してこなかった者として責任を感じずにはいられない。

放射性物質を制御することができないなら、一刻も早く原発はなくすべきだろう。

2012年3月5日月曜日

信頼を失うということがどういうことなのか彼らはわかっているのだろうか?

にわかに信じ難いことだが、大臣クラスの方々は「信頼を失う」ということがどういうことなのかあまりよくわかっていないらしい。

言葉では「国民の信頼を取り戻さなければいけない」というようなことを何人かの閣僚が発言しているから「信頼を失っている」という自覚自体は持っているようだ。

まぁ、下記リンクのようなことを繰り返していれば、だれも信用しなくなるのは当然である。



問題なのは彼らが「信頼を失う」ということがどういうことなのかよくわかっていないということだ。だから彼らは平気な顔でこんなことを考える。


どうやらがれきを受け入れた自治体にはお金をくれるらしい。

「お金あげるからグズグズ言ってないで手伝ってよ」ということか。そんなことでこの問題が解決すると思ったら大間違いである。
がれきの広域処理に反対している人たちは、政府が「信用できず安心して任せられない」から反対しているのだ。
政府がいくら「安全です」と言っても、「国が決めた基準値以下です」と言っても、政府を信頼していないのだから何の効果もない。それが「信頼を失う」ということなのだ。

では国民の信頼を取り戻し、がれきの広域処理を軌道に乗せるにはどうすればいいか。

この問題を解決するには、やり過ぎと思われるくらいに徹底した情報開示を行い、それを住民とともにチェックする体制を整えるのが一つの方法である。

受け入れるがれきから検出される放射性物質、消却灰から検出される放射性物質、その基準値を国が押しつけるのではなく各地域の住民とともに決める。希望する住民にはがれきや消却灰の放射性物質の計測を許可したり、埋め立て現場の見学を許可する。

もし、何らかの問題を住民から指摘されたら即座に中止できるようにしておく。

ほとんどの人は自分の目で見て、確かめれることができるなら納得し安心するはずだ。

意味もなく「反対」とだけ言い続けている者は無視すればいい。

がれきの広域処理に反対している人の中にも、東北の復興を願っている人は大勢いる。政府は一刻も早く自らの失態を認め、住民の立場に立った施策を打ち出すべきである。


2012年3月4日日曜日

いじめと虐待問題について

いじめや児童虐待が増えているらしい。



私はこの「いじめ」「児童虐待」という用語の使い方が適正ではなく、おかげで世の中に大きな誤解が生じたと感じている。

学校で撲滅すべき生徒間の問題は「いじめ」ではなく犯罪である。

暴力をふるってケガをさせればそれは傷害である。靴を隠したり学習用具を奪えばそれは窃盗である。「いじめ」というくくりに入れられているが、実際は犯罪行為であることはかなり多いような気がしている。子どもが犯罪行為を犯した場合は、学校、教員、父兄が関与して厳しく処罰するべきだろう。特に人を傷つける行為には容赦はいらない。

反対に多少の口論、ちょっとした小突き合い、仲間はずれなどに過敏に反応する必要はない。そのようなことは誰もが経験することだ。人間は集団で社会を構築する動物だから、小さな争いはいつでもどこでも必ず発生する。子どものときに経験するいさかいは訓練に過ぎない。昔から子どものケンカに親は口を出すなと言われてきた。できるだけ自分たちで問題を解決させた方が将来のためなのだ。問題が大きくなり過ぎた時だけ大人は関与すればいい。

ところがいまは、なんでもかんでも「いじめ」と受け止め大人が関与してやめさせようとする。そのような過干渉が子どもの社会への適応力を奪うのだ。

一方、家庭で撲滅すべき問題も「児童虐待」ではなく犯罪だ。
子どもは親の所有物ではない。子どもへの行き過ぎた暴力や養育の放棄は犯罪以外の何ものでもない。これも遠慮なく処罰すべきだ。また子どもが限度を超える暴力を受けている証拠を見つけた場合などは、当局に通報する義務と注意する権利をすべての人が持つと認識すべきだろう。児童相談所などが親権を気にするあまり、なかなか強制的に踏み込もうとしないのは間違いである。基本的には火のないところに煙は立たない。

だが、子どもには厳しいしつけも必要である。子どもの頃、夕食を食べさせてもらえなかったり、ひっぱたかれたり、家に入れてもらえなかったりという罰を与えられた経験は多くの人が記憶にあるだろう。子どもには尻を叩かれたり、家の外に立たされた程度の経験はさせておくべきである。体罰を全面否定する教育の専門家もいるようだが、節度ある体罰は子どものしつけには有効である。

愛情あるしつけと犯罪である暴力を、近隣の住民、児童相談所、警察、裁判所のすべてが見間違うことなどあり得ないのだから、親の子どもに対する犯罪的行為を目撃したら遠慮なく関係機関に通報しよう。

2012年3月2日金曜日

わかっちゃいるけどひっかかるものなんだなぁ

AIJ投資顧問の問題が大騒ぎに発展している。




この手の事件が起こるたびに、どうしてこんな荒唐無稽な儲け話に簡単にひっかかるんだろう……そう思わずにいられない。

だが、いろいろな情報が入ってくるにつれ、なるほどと思う部分が出てくる。

まずターゲットの選定である。



年金基金を扱う事務所の様子が目に浮かぶようである。想像に過ぎないがおそらくとてものんびりした職場なのであろう。

その上こんな援護射撃も受けている。


見事な戦略である。きっと、AIJの社長は話がうまく押しも強いのであろう。

私が担当者で基金の運用がなかなか思うようにいっていなかったとしたら、わらにもすがる思いで飛びついてしまうかもしれない。

騙された人を馬鹿にせず、他山の石としてきちんと学んでおきたい。

2012年3月1日木曜日

ファインプレーは目立たない

昨日のブログで菅前首相の原発事故対応について批判したが、実はまるっきりダメダメだったと思っているわけではない。


福島原発事故独立検証委員会の北澤宏一委員長が記者会見で述べたように、東電の撤退を許さなかった点は評価されるべきだと思っている。



東電は撤退すると言っても必要な人員は残すつもりだったと言い訳しているらしいが、それを信用するものはあまりいないだろう。

さて、それではあのとき菅前首相が東電本店に乗り込み、断固たる姿勢で撤退を阻止していなかったらどうなっていただろうか。あまり想像したくないし、専門知識も持ち合わせていないので詳しく言及しないが、相当悲惨なことになっていたことは確かだ。

しかも、そんな事態になったとしたら、東電や原子力安全・保安院や原子力安全委員会はきっと、

「あそこに作業員を残してももう打つ手はなかった。退避は人命尊重のためにやむを得なかった」

とかなんとか言って一致団結して居直るか、お互いに責任をなすりつけあったに違いない。

現場作業員が踏みとどまり、事故収束とまではいかなくても(野田首相と私の認識は違う)、かろうじて原子炉をコントロールするところまで持っていった現在の姿は存在しなかったわけだ。

だから私はこの「撤退阻止」だけは菅前首相の英断だったと思っている。もしそのために、現場作業員に何かがあったら厳しい批難・批判を一身に負うくらいの覚悟はしていただろう。

その後のドタバタや情報の隠蔽、スタンドプレーの数々、首相辞任後にいきなり呑気にお遍路に出かけてしまったことなど、いただけない部分はてんこ盛りだが「撤退阻止」だけはファインプレーと評価したい。

だけど自分で言っちゃダメだよね。

もともとファインプレーというのは目立たないものなのだ。優秀なプレーヤーはファインプレーを連発しているのだが、いとも簡単にやってしまうので見ている人はよくわからなかったりする。ときどきわかりやすいファインプレーをしたときだけ観客は気づく。そういうものなのだ。