2012年8月16日木曜日

20120816_NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」を見て思ったこと

昨日、NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」という番組を見た。

NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」

番組の検証によれば、1945年8月15日より以前に、終戦という決断をするチャンスが幾度となくあったようだ。

しかし、残念なことに陸軍、海軍、外務省など、決定権を持つ高官がそれぞれの立場で持つ情報を共有できず、さらに自己保身、組織防衛、偏見、先入観、錯誤などの負の要因を乗り越えられず、結局、適切な判断を、適切な時期に導きだすことができなかったということらしい。

結果的に終戦は、広島、長崎への原爆の投下、ソ連の参戦後になり、被害はとてつもなく拡大した。番組タイトル通り「終戦 なぜ早く決められなかったのか」と当時の高官を糾弾したいところだが、番組が先に進むにつれて、別なところへ思いが飛んでいった。

「終戦」とは比べものにならないほど小さなことだが、職を賭(と)した問題(個人的問題としては十分大問題と言えるかもしれないが、私にとっては自分の信念を曲げるほど重大なことではなかった)で信じられない経験をしたことがあるのだ。

かなり以前になる。小さな会社でそこそこのポジションにいた私は、とある問題でオーナー経営者と対立した。私の考えが正しいことは明白だった。事実、オーナーを囲む取り巻き連中でさえ私の意見に賛成していた。しかも問題が取り扱いを間違えれば、会社が傾きかねないほどの重要なことだったので、オーナーの暴走を見過ごすことはできなかった。

ところが、問題をどう扱うか決定する会議において、直前まで賛意を表明していたものまで含め、全員がオーナー側についた。つまり会社の経営陣がのきなみ、会社の存亡ではなく、オーナー経営者におもねることを選んだのだ。

どうやら人間というのは、そういう習性を持つ生き物のようである。

まず最優先されるのは「何が正しいか」ではなく「自分にとって何が正しいか」なのだ。正しい行動をとって会社の危機を救っても、そこに自分がいなければ意味はないということだ。

昨日「終戦 なぜ早く決められなかったのか」を見て、一個人の職業の問題ではなく、国の存亡、数十万という人の命に関わる局面においても、同じような考えがまかり通ると感じ驚いた。

そしてもう一つ。正しいことを言っても、必ずしもそれが役立つわけではないということも感じた。御前会議のときにソ連参戦の可能性があることを、軍部代表が進言したとしたらどうなっていたであろうか。むろん急速に終戦へと事態は進んだかもしれないが、進言した者が他の人から集中攻撃を受けて、権力の座から追放されただけかもしれない(オーナー経営者を敵に回した私がそうだった。まぁ、私の場合はそうなる前に自分からとっとと辞めてしまったのだが)。

まぁ、いまとなってはそこまで検証することは不可能である。

結果がどっちだとしても、自己保身や何やらのために平気で真実を曲げる輩は最低だが、バカ正直に正面突破をはかって玉砕する者も利口とは言えないといまは考えている。

重要な局面では、目的を達成するための柔軟な心と戦略を持つものが必要なのだろう。

そして、そんな人は滅多にいない。

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