2012年4月24日火曜日

大飯再稼働に向けた政府の対応がずさん過ぎる件

ここまででたらめだと返って清々(すがすが)しい気持ちに……なるわけないか。

いや、大飯原発再稼働の話である。

政府はあまりにも大飯原発周辺自治体の反発が強いのに驚いて「需給検証委員会」なるものをつくった。

また、京都府と滋賀県には経産副大臣を差し向け、再稼働に向けて説明を行った。

という話を聞くと、政府が至極まっとうなことをやり出したように思えるが、内容を知るといかにも付け焼き刃であることが見え見え過ぎて驚きを通り越してあきれかえってしまう。

どういうことかというと、以下の二つの記事に注目して欲しい。

節電でも西日本は3.6%不足(需給検証委員会)

“運転再開に緊急性”知事に説明(経済産業副大臣)

両方とも昨日(4月23日)のニュースである。一方では政府が設置した需給検証委員会の第1回目の会合が行われているというのに、もう一方では経産副大臣が京都府と滋賀県の知事に向かって正式に「電力供給の確保のために運転再開には緊急性がある」と断言している。需給検証委員会は夕方6時頃も続いていたので、同日ではあるが経産副大臣の知事訪問の方が時間的には早い。

それに需給検証委員会は初会合が開かれただけで、まだ何の結論も出していない。

要するに政府にとっては需給検証委員会なんてどうでもいいわけだ。政府の結論はすでに出てるんだから。

野田政権の支離滅裂度が急激にアップしている。

2012年4月22日日曜日

目的が明確になっていないから何も達成できない

「いまさら何言ってんの」

そう叱られてしまいそうだが、最近改めて痛感していることがある。

それは、

“目的を明確にしないと何も達成できない”

ということだ。

私はいま、3つほど市民活動やNPO活動に参加しているのだが、その活動を見ていると運営のうまさ、まずさが手に取るようにわかるのだ。

どの団体もそれなりに志の高い人たちが揃っている。ところが面白いことに、能力が高い人たちが多いと思われる団体二つがうまく成果を出せず、どちらかというと平凡な人の集まりのように見える団体が目を見張るような成果を上げているのだ。

どういうことなのだろうと思い観察していてすぐに思い至ったのが、

“目的を明確にしないと何も達成できない”

ということなのだ。

考えてみれば当たり前のことなのだが、その団体の中に入ってしまうとそんな簡単なことさえ見えなくなってしまう。

成功している団体は何を実行するかがはっきりしており、なおかつその目的をメンバー全員がきちんと共有している。

一方、うまくいかない団体二つはメンバーの能力が高いからなのか、壮大な目的を掲げ過ぎていて完全に進路がぼやけてしまっているのだ。しかも、メンバー各自が壮大な目的を達成するための異なる副目的を持っていて、てんでバラバラ状態になってしまっている。

それでうまくいくわけないよね。

まぁ、よく言われる教訓なのでいまさらという感じはするが、一応書いておく。

まず、なかなか思ったように成果が出ていないのなら、目的が明確になっているかどうかチェックしてみよう。

そして、もし複数のメンバーが関わっているなら、目的がきちんと共有されているかもチェックしてみよう。

落とし穴は意外とそんな簡単なところにあったりする。

2012年4月20日金曜日

がれきの広域処理はもはや必要ないようである

以前のエントリーで「がれきの広域処理がどうやら軌道に乗ったらしい」と書いたが、どうやらそれは私の間違いだったようだ。

いまだにたいした進展は見られない。

進展が見られないのはむろん政府の無策のせいであるが、ここまで無能だとは私も想定していなかった。完全に見込み違いだったようである。しかし、実は今回ばかりは野田政権の無能がかえって幸いしたかもしれない。

というのは、どうやらがれきの広域処理は必要ないようなのだ。

南相馬市では防潮林の土台として使用するためのがれきを欲しがっているし、宮城県の沿岸部では国が防災林を整備する際の土台としてがれきを使用するらしい(いまのところ環境省では、南相馬市で宮城県や岩手県のがれきを使用することを認めていないらしいが、いずれ認めざるを得なくなるだろう)。

その上、宮城や岩手の被災した市町村の中には雇用を生み出すために、処理用のプラントをつくってもらって、がれきを自分たちの地域で時間をかけて処理したいというところもあるらしい。

もともと現時点で国が広域処理したいと言っているがれきは全体の2割に過ぎない。無理に進めようとして多大なエネルギーをつぎ込んでいる広域処理などさっさとあきらめ、その他の方法を模索した方がはるかに現実的だ。その方が広域処理用に用意した予算も節約できる可能性が高い。

被災地にはかさ上げが必要なところもたくさんあるのだから、そのためにがれきが役立つかもしれない。

政府は一度言いだしたがれきの広域処理という案を、ほとんど受け入れてもらえないうちに引っ込めるのがいやなのかもしれないが、もうあきらめた方がいいだろう。

受け入れを表明した自治体も、適当に理由をつけて辞退した方がいい。東京都のようにあっさり国の基準を鵜呑みにしたまま受け入れてしまった自治体はあとで恥をかくことになる。

野田総理や藤村官房長官、枝野経産相、細野環境相、その他の民主党幹部に言っておきたいのだが、心底信じていないことを発言しているときはテレビ越しでもわかるものだ。それを日常的に繰り返していればやがて誰からも信用されなくなってしまう。いまはそのほんの一歩手前というところだろう。大衆をあまりなめてはいけない。

それにしても野田政権の無能さには本当に驚く。

2012年4月17日火曜日

中間貯蔵施設に関する政府の巧妙なごまかし

残念ながらわれわれは自分が一番正しいという、たいがい間違っている考えを容易に乗り越えることができない。

たとえば私などは、自分が相当に阿呆で間が抜けており、さらにかなり自己中心的であることをよく知っている。そのため日々それを自戒しながら生きていたりもする。

せっかくそうやって暮らしていながら、それでもなおたびたび自分が正しいと意固地になるという過ちを繰り返している。

困ったものだが、それも人間が所詮動物に過ぎず、本能に支配されている証拠なのだろう。多少は矯正できても、本能を完全に抑え込むことはできない。

中間貯蔵施設を巡る政府の事の進め方を見ていて、ふとそんなことが頭に浮かんだ。

どうしてこうも細野環境相やその周辺の政府関係者は自己中心的で傲慢なんだろう。


政府は大熊町に中間貯蔵施設をつくらせれば、隣接してつくる研究施設などで町民をたくさん雇ってくれるらしい。

だから
「迷惑だ、迷惑だとばかり言ってないで中間貯蔵施設の設置に協力しなさい。どうせ仕事がなくて困ってるんだろうからありがたいでしょ」
というわけだ。

私のように部外者で間が抜けた者ならよく考えもせず、うっかり騙されてしまいそうな甘い罠である。

だがいま一度よく考えてみよう。

中間貯蔵施設はかなり汚染濃度が高い地域につくられる。研究施設はむろんできるかぎり汚染濃度が低いところにつくられるだろうが、中間貯蔵施設から遠く離れていては意味がない。

つまりそこは、あまりいい職場環境ではないわけだ。

それに政府が町民を研究者として雇ってくれるわけではない。よくて事務員、悪ければ研究施設の掃除係や研究者の食事の世話係、力仕事専門員などとして町民を使いたいのだ。

もし、町民が参加してくれなければ広く募集しなければならない。環境が悪いということで当然賃金は高くなる。それでも集まるかどうか蓋を開けてみなければわからない。だから町民をうまく呼び込めれば政府にとってはすべてが好都合なわけだ。

〈中間貯蔵施設が町の復興の妨げになるという思いを持っている人が多いが、それは違う。今後は雇用、研究などプラスの要因もあることを丁寧に説明していきたい〉

細野環境相は、こんなごまかしばかり言っていないで本当のことをもっと丁寧に説明したらどうだろうか。

問題解決の近道はそれしかないのだから。


2012年4月12日木曜日

とてつもなく大きな代償

4月1日から食品に含まれる放射性セシウムの基準が厳しくなった。

食品のセシウム 新基準がスタート

当然予想されたことだが、とたんに基準を超えてしまう食品の報告が増え始めた。しかも地域的にはかなり広範囲に及んでいる。

福島市のホウレンソウが基準超
船橋でタケノコが基準超 出荷も
栃木 11市町のシイタケが基準超

ほぼすべての日本人が体験したことがない事態なわけだから、このような状態がいつまで続くのかいまのところ想像すらできない。3年なのか、10年なのか、30年なのか……。

その間われわれはずっと、食品の安全性を気にしながら暮らさなければならない。

東電、官僚、政治家、学者、その他原子力ムラ関係者すべてに、きっちり責任をとってもらわねばならないが、どうやっても放射性物質のない日本は返ってこない。


残念なことである。


だが「食品の安全性を気にしながら暮らす」というのは、原発の危険性を薄々承知しながら、あえて問題にしてこなかったわれわれが支払うべき代償と解釈すべきなのだろう。自分の身を守るために淡々と行っていくしかない。

そしてもうひとつ、必ず実行しなければいけないのは、農家や漁師、子どもや福島第一原発周辺住民など、必要以上に代償を支払わされている人びとへの補償をきちんと行うことと、安易な原発再稼働を止めて二度と同じ過ちを繰り返さないようにすることだろう。

災厄はいつ、誰に降りかかるかわからないのだから、被害を受けなかった者は所詮人ごとと見て見ぬふりをしてはいけない。

2012年3月31日土曜日

幼児虐待事件の裁判、三判決

一つ前のエントリーで孤立死、孤独死のことを書いたのだが、実は最近幼児虐待事件のことも少し気になっている。


ここのところ続けざまに3つの事件の判決が言い渡された。たまたま判決の日にちが近かったので普段見過ごされがちなこと(まったく気がついていないという人は少数かもしれないが、はっきり認識していたという人も少ないと思う)が明白にわかるので、そのことについて書いておく。


以下の3件がその3つの事件である。




記事を読んでいただけばわかるが、3つとも幼児虐待という殺人事件なのだが判決に大きな違いが見られる。

最初の事件では24歳の母親が育児放棄し、3歳と1歳の子どもを衰弱死させた。裁判官は懲役30年を言い渡した。

2番目の事件では夫28歳、妻29歳の夫婦が1歳の娘を暴行し死に至らしめた。裁判官は求刑が10年であったにもかかわらず、懲役15年を言い渡した。

3番目の事件では26歳の母親が生後2カ月の娘を殴って死なせた。裁判官は懲役3年、保護観察付き執行猶予5年(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。

最初の事件のみ裁判員裁判だったということである。

むろん3つの事件の背景は異なるだろう。最初の事件では2人の子どもが犠牲になっている。確かに他の事件では犠牲になった子どもは1人だが、暴行によって死に至らしめている。

いかに事件が多様であるといっても、類似の事件で「懲役30年」「懲役15年」「執行猶予」と大きく判決が異なる合理的な説明があるとはどうしても思えない(断っておくがここで判決の軽重は論じない)。

そこで得られる結論は、現在の司法システムはけっこういい加減な部分があるということである。

だからこれから先、もし何らかの犯罪を犯したり巻き込まれてしまったら、法が公平に裁いてくれるなどと甘っちょろい考えは持ってはいけない。なにしろ検察官、弁護士、裁判官等の考えや力量、そしてその時々の世論の動向によって判決は大きく変わってしまうのだから。

当然のことながら法を犯さないように日頃から気をつけるのが最善だが、万が一不幸にもなんらかのアクシデントによって司法の裁きを受けるはめに陥ったら、それがどんなに軽微なものであってもあなどってはいけない。全力で対処することをお勧めする。

2012年3月24日土曜日

孤立死、孤独死について

高齢者や社会的弱者の孤立死、孤独死が後を絶たない。



それを受けて東京都が、速やかに部屋の中に入って安否を確認するよう対応を見直すことになった。


問題解決に向けての小さな前進だとは思う。何もやらないよりははるかにましである。加えて様々な取組が自治体レベルで検討されている。電気・ガス・水道料金などの滞納情報から危機を察知するという方法なども、実現できればある程度の成果を出せる可能性はある。


だが、いま考えられているいくつかの対策がすべて実行に移され、その結果、問題の多くがうまく解決するかといえば、残念ながらそうはならない。


理由はいくつかあるが、大きなものを二つほど挙げておく。


まず問題の性質上、効果的と思われる制度ができたとしても、その運用がかなり難しいということだ。たとえば滞納情報から危機を察知するという方法について考えてみよう。


たぶん制度は滞納が発生したらできるだけ早く安否確認することと決められる。確認は地区の民生委員か行政職員か警察など決まった人が行うことになるだろう。


制度の運用が始まり、滞納情報が続々と届く。


担当者は最初のうちは丁寧に1件1件対応する。だがほとんどの場合、単純な滞納に過ぎず、訪問相手に感謝されることなどほとんどなく反対に嫌がられてしまう。中には「いちいち確認に来るんじゃねぇ、ボケ」とか言ってすごむ輩もいるかもしれない。繰り返し繰り返し訪問しなければいけない家も出てくる。安否確認に行くたびに迷惑がられ、そのうちにいちいち滞納するたびに来ないで欲しいと頼まれたりもする。


やがて訪問先を選ぶようになり、誰かがどこかで何かを見落とす。そして再び孤立死が発生する。


どんな制度でもうまくいくか否かは、ある程度それを運用する人の能力に頼らざるを得ない。より実効性のある制度にしていくためには、試行錯誤を繰り返す以外に方法はない。


二つ目の理由は、これらの対策は根本的な問題の解決になっていないということだ。


孤立死、孤独死が増えたのは、社会が閉鎖的になったためにほかならない。その根本問題をしっかり受け止めて解決しない限り問題の根絶は不可能だ。


私たちは密閉度の高い快適な住居を手に入れ、プライバシーを尊重するという理屈で近所付き合いの煩わしさを大きく軽減することに成功した。だがそれは地域のつながりを弱め、孤立死や孤独死などを誘発する諸刃の剣だったということだ。

そろそろ間違えを認め、進む方向を修正するべきときなのではないだろうか。