2012年5月31日木曜日

もし私が脳死になったら……。

3カ月ほど前にこんなエントリーを書いた。

臓器移植の意思表示をしよう

で、さっそく実行しようと思って書いた翌日に社団法人臓器移植ネットワークのホームページを開いてみた。

もちろん私は上記エントリーに書いたように、すべての臓器を提供するという意思表示をするつもりだった。本音を言うと、ちょっと怖いし、何も全部提供しなくたって……という気おくれがなくはなかった。

だが、自分で言い出したことだから逃げるわけにはいかない。そう思い勇気を出してホームページを開いたのだ。

ホームページには予想通り、ネット上から意思登録できる仕組みが用意されていた。

なんてことはない、そこでササッと入力して手続きを完了させれば臓器提供意思表示カードが送られてくる。だが、やはり内蔵を全部取られる可能性があるのだから少しは万一のことを確認しておきたい。そう思ってホームページをいろいろ見ているうちに、なんとなくげんなりしてきてしまった。

どうもこの臓器移植ネットワークのホームページからは人間味があまり感じられないのだ。自分が事故に遭い、意識不明になった時にどんな確認が行われて脳死判定となるのか、そこでは何らかの手違いが起こる可能性をどう排除しているのか、家族のケアはどう行われるのか……。

これから意思表示しようと考えている者にとって必要なのはそのような情報だが、残念ながらホームページの作られ方を見る限り、そのような情報提供には力を入れていないようだ。どちらかというと現状の臓器提供の少なさ、必要性に重点が置かれていると強く感じた。

そうなると人間は弱いものだから不安がもたげてくる。果たしていざという時に自分はきちんとした扱いをしてもらえるのだろうか。実際に国内で行われた脳死移植が13例(2012. 5. 31現在)しかないのは現行制度に何か問題があるからではないのか……。

そんなわけで私はとりあえず、最初に考えていたのと正反対の登録をした。

「臓器提供はしない」と。

機会があったらもう少し詳しく調べ、日本の臓器移植が適正に行われていると納得した上で「すべての臓器を提供する」という登録に変更しようと考えている。

何かを人に依頼する場合は、自分の都合ばかりを前面に出してはいけない。これは鉄則である。

2012年5月30日水曜日

頻発する痛ましい事故の根底にあるもの

痛ましい交通事故が一向に減らない。

京都・亀岡事故
千葉・館山事故

そこで文部科学省がいろいろと子供たちを事故から守るための方法を考えている。

文科相 通学路対策保護者と連携を

対策をとれば多少なりとも効果はでるから、それはそれでどんどん推進してほしいと思う。

しかし、根本的な問題解決はまったく別なところにあると感じている。

皆さんは、小学生たちが登校する時間に学校の近くでその様子を観察したことがあるだろうか……。

私の通勤経路の途中には小学校があり、すぐ前を幹線道路間をつなぐ抜け道が通っている(車同士がギリギリすれ違える程度の細い道)。学校の東側から登校してくる子供たちはその道を横断しなければならない。

当然のことながら横断歩道が用意されている。

私の考えでは、横断歩道の手前で子供たちが待っていたら車は停車して子供たちを渡らせるのが当たり前である。うまい具合にその横断歩道は以下の図のような場所にあるので、図の下から来る車はすべて一時停止状態になるのだからなおさらだ。



だが実際は違う。

子供たちの方が立ち止まって、T字路を車が通り過ぎていくのをじっと待つのだ(200メートルほど手前に国道からこの抜け道に入る信号付きの交差点があるので、たいてい車は5、6台連なってやってくる)。

子供たちを先に渡らせるためにしっかり停車する車は10〜20台に1台程度しかいない。

実は、同じような光景は街のあらゆるところで見ることができる。いつのまにか日本は歩行者より車の通行が優先されるようになってしまっているのだ(むろんこれは車の往来が激しい幹線道路のことではなく、歩行者が日常的に行き交う生活道路の話だ)。

まぁ、歩行者優先を忠実に守っている私が、横断歩道でしばしば車に轢(ひ)かれそうになっているありさまだから、いまや子供や高齢者が車を優先させるのは自己防衛のために仕方のないことなのかもしれない。

頻発する痛ましい事故の根底にあるものは、

横断歩道で子供や高齢者が待っていても停車しない。
(歩道や路側帯のない道で)道の端を通る歩行者や自転車を猛スピードで煽っていく。

そのようなドライバーのモラルの低さとその存在を看過している社会であると私は考えている。

2012年5月26日土曜日

護身用ナイフが身の破滅を招く

正常な認識では、普通に外出する時に私たち日本人は銃器や刃物類を一切持ち歩かない。
だが、ときどき以下のような事件が起こる。

トラブルがきっかけでナイフ所持 渋谷切りつけ事件

犯人は以前歩行中にトラブルにあい、護身用としてナイフを所持するようになったらしい。

市民が銃を所持できる米国などでは、多くの人が護身用として銃を持っていると聞く。社会に銃が溢れているために乱射事件などが後を絶たない。その度に規制強化の議論が起こるらしいが、所持派の勢力も多くいつも規制強化には至らない。

そこで一つ疑問である。

米国がそうであるように、日本でも口論や掴み合い(酔っぱらってる場合が多い)はよくあることなのだから、護身用に法律で規制されていないナイフ等を持ち歩くのは社会的に許容されるのだろうか。

法的に解釈すれば、所持が見つかっただけでは罪にはならないだろう(私は法律の専門家ではないので間違っているかもしれない)。

だが、日本で深夜でもない時間に普通の場所で過ごすのに、護身用のナイフを持ち歩きたいと自分が思った瞬間から、自分の精神状態を疑った方がいいと思う。

私は若い頃わりと短気だった。しかもしばしば泥酔していた(もちろん今はそんなことはない)。まぁ、簡単に言えばどちらかというとトラブルにあいやすい部類だったと言える。

その私でさえ、長い人生に置いて望まない暴力沙汰に巻き込まれたことはただの一度しかない。つまり日本においては、少しくらい好戦的であったとしても乱闘騒ぎに発展することなどほとんどないのだ。少々の口論、押し合いへし合いなど気にする方がおかしい。

だから私はケンカが強いわけではないが、護身用ナイフの必要性などまったく感じたことがなかった。

小さなトラブル(まぁ、恫喝されたり胸ぐらを掴まれる程度)に遭遇したからといって、護身具無しに外へ行くのが不安と感じたら、自分の心の有り様をチェックしよう。

頻繁にトラブルに巻き込まれる(年に1、2回とか)ようなら、自分の言動におかしなところがないかどうかチェックしよう。

くれぐれも特別な場合以外は護身具など身につけていてはいけない。そんなものを持っているから使いたくなるのだ。

2012年5月13日日曜日

他人を第一印象で判断することの愚かさ

その昔私は、かなり短気だった。

と言っても、暴力的だったわけではないが仕事上のことでよく激高したものだ。

ただし激高すると言っても、心の内に冷静なところは残っていて、ちゃんと勝ち負けの計算だけはしていた。

「オレのほうが有利だな」

そう判断した場合は、部下や下請けだけでなく先輩や上司でも遠慮なくけちょんけちょんにして悦に入っていた(さすがに顧客をけちょんけちょんにしたことはないが……)。

「ありゃ、オレもしかして無茶なこと言ってる?」

なんてときは頭の中で「やべえぞ、やべえぞ」と警報が鳴り響くため、抜き差しならない状態に至る前にかろうじて撤退することができていた。

まぁ、そんなわけだからしばらく前までは、けっこうピリピリした感じのあるオヤジだったわけだ。おかげで若い頃からあまり軽く見られることはなかった。一方、相手に無用な警戒心を持たれるという欠点はあったが、困るというほどのことでもなかった。

だが、数年前から少々事情が変わってきた。

なぜかあまり頭に血が上ることがなくなってきたのだ(むろん腹を立てることはあるが激高するようなことはもうほとんどない)。と、同時に身につけていたピリピリした感じもどうやら消えてしまったらしい。

そうするととたんに……あちこちで未経験の出来事にでくわすようになった。

道を歩いていてベビーカーにどつかれたり、スーパーのレジの行列でオバさんに割り込まれたり……。

どうも世の中には穏やかそうな親父には何をしてもいいという暗黙の了解があるらしい。前述したようにそれで頭に血が上ったりはしないがさすがに少しムッとする。それにこういうふざけた連中を野放しにしておくのは社会にとって好ましくない。ということで最近はその手の無礼者はその都度きっちり退治することにしている。

まぁ、ベビーカーやレジなどでの問題はその程度でいいだろうと思っている。問題は次のようなケースだ。

とある会合ではじめてあった人と名刺交換したとする。こちらは表面上はただの参加者のように振る舞っているが、実質は会合の中心メンバーである。名刺交換した相手は会合に初参加した方で、場合によってはこれから中心メンバーへと育っていく能力を持ち合わせている人かもしれない。

会合で私がわざと目立った行動をとらないようにしていたとしよう。すると初対面のその人があからさまに私を小馬鹿にした態度をとったりすることがあるのだ。あるいは後日連絡をとろうとしてもまるっきり相手にされなかったりということもある。

残念なことである。当然その人は目的があって会合に参加したのだろうが、中心メンバーを無視していては何も得ることはできない。参加者をよく知らない会合では、誰とでも丁寧に対応しておくべきなのだ。

人を自分の勝手な思い込みで判断すると、ベビーカーやレジの人のように思わぬ反撃にあったり、せっかくのビジネスチャンスを失うことになる。

人を第一印象で判断するという愚かな行為はやめよう。